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「司法取引が変える組織と個人の関係」

 司法取引とは容疑者や被告が自分以外の犯罪について捜査機関に協力する見返りに、自分自身の求刑を軽くしたり、起訴を見送ってもらう司法上の取引です。アメリカのドラマや映画でよく見るものですが、それが日本でもこの6月から適用開始されました。
 その日本版司法取引の第1号がこのほど明らかになったのですが、その内容はやや意外なものであり、日本人の組織と個人の関係を考え直すものであったように思います。

司法取引の内容
 今回の司法取引は海外公務員への贈賄に関するもので、三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の元取締役、元執行役員、元部長の3人を在宅起訴し、捜査協力した企業は不起訴となるというものでした。こうした形で決着した裏には何か深い事情があるのかもしれませんが、表面的には司法取引により会社が罪を免れ、社員が罪を被る形で決着しました。会社も法人として罪を問われる立場にあり、論理的にはおかしくない決着なのでしょうが、日本人がこれまで抱いていた組織と個人との関係性を考えれば、どうも釈然としないものが残ります。

会社のために働く
 これまで我々は、漠然とではありますが、個人と属する会社の利害は一致し、個人は「会社のために働く」ことは当然であり、会社のために一生懸命働けば、それが多少社会的に許されない行為であっても、会社が悪いようにはしない、ということを暗黙の前提として働いていたように思います。今回在宅起訴された3人は海外での贈賄行為により罪を問われたわけですが、個人的な利得のためにやったわけではなく、会社の利益のために行った行為です。法律違反がよくないことは当然ですが、それでも会社のためにやった行為で、会社が公然と司法取引で社員を売り渡し、会社自体の罪を免れるというのは、これまでの我々のメンタリティからすると納得できないというのが、正直な感想だと思います。
 しかし、私はこの事件を日本人の感性に反しているからという理由でネガティヴに捉えるのではなく、前向きに受け止めるべきだと思います。というのは、組織と個人との関係を考え直すいい機会になると思うからです。

個人の判断が重要
 今回の司法取引の結果から学べることは、当然と言えば当然なのですが、会社と個人は利害が対立することがあり、その場合、会社は個人を犠牲にしても会社を守るということです。だとすれば、「会社のために働く」というのは個人にとって自明の真理ではなくなります。
日本人はこれまで事の善悪の判断まで会社に預け、「所属する会社にとっていいか悪いか」という基準で行動していたように思います。商工中金の財務諸表改竄もスルガ銀行の預金通帳改竄もいずれも上司の命令で、会社のためにと思って行った行為です(結果的には会社のためにはならなかったのですが)。個人で善悪を判断していたなら、財務諸表や通帳の改竄は行わなかったはずです。
 つまり、会社のためによかれと思ってしたことも、社会的に許容されなければ、会社は守ってくれないということです。大切なのは会社にとっていいか悪いかではなく、あるいは会社の命令だからやるのではく、社会にとって許されるかどうかを自分自身で判断することです。そのとき重要なのは個人としての倫理観です。今回の司法取引は、そんな当然のことを我々に再認識させたものだといえそうです。

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