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「起爆剤になるか、お荷物になるか」

2023/09/01

 万博関連施設の建設が遅延しており、スケジュール通り開催できるか懸念されています。さらに、開催の意義そのものまでが問われようとしています。2年前のオリンピックも今回の万博も、半世紀前、盛況を博した東京オリンピックと大阪万博の再来を期待してのものだったのですが、経済に与えるインパクトは前回とは大分様相を異にしています。今回はなぜ期待通りの成果をあげないのか考えてみます。

 

成長に拍車をかけた高度成長時代

 前回のオリンピックは1964年、万博は1972年開催で、高度経済成長真っ只中です。私は1956年の生まれですから、当時の高揚感を覚えています。オリンピック開会式における「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」という有名なNHKの実況放送も、決して大言壮語には聞こえず、違和感なく受け取ることができたように思います。オリンピックに間に合わせるように、東海道新幹線が開通、その後東名などの高速道路網が整備され、日本経済の成長を加速させました。大阪万博にも多くの人がつめかけ、こうした大きな博覧会を開催できる経済大国としての実力を実感しました。

世代論を語るとき、世代の区切り方として、どういう事象を共通体験として保有するかは重要なメルクマールとなります。我々の前の世代では、言うまでもなく戦争体験が大きな分岐点です。次の分岐点は、私は1964年の東京オリンピックと1972年の大阪万博だと思います。この2つの大規模イベントは日本の高度経済成長の象徴として記憶されているからです。

砂利道だった道路は舗装になり、当初は珍しかった自動車が必需品に変わり、道にあふれます。生活面でも、テレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫などが瞬く間に家庭に普及します。池田勇人内閣の「所得倍増計画」の下、給与は毎年確実に上昇していましたから、手元に現金がなくても、月賦で電化製品を購入することにためらいはありませんでした。日本の世界におけるプレゼンスは日増しに高まり、いつの間にかGDPはアメリカに次いで世界第2位となっていました。今日は昨日より、明日は今日より豊かになることが実感できた時代でした。そうした時代ですから、借金をしてオリンピックや万博のような大規模イベントを行っても、その借金は将来豊かになる世代が無理なく返済できるだろうと思われていました。

 

下り坂では重荷になる

だから、当時を記憶する年老いた現代の政治・経済の指導層が、オリンピックや万博を誘致して、沈滞している日本を再び元気にしようと考えたのも心情的には分からないではありません。しかし、それは完全に原因と結果を取り違えています。オリンピックと万博があったから、高度成長になったのではなく、高度成長にあったから、オリンピックと万博が輝いたに過ぎません。

誘致以前から、借金により箱モノを建設して、経済を活性化させようとする発想の古さを指摘する声は多くありました。半世紀前は経済が上り坂だったから、投資の乗数効果は高く、投資が投資を呼び、消費も活性化し、経済を勢いづかせました。借金は経済成長により担保されていたのです。

しかし、ピーク時世界3位まで上昇した1人当たりGDPが直近では30位程度に落ちているように、今の日本経済は下り坂にあります。ただでさえ、膨大な国家債務の負担にあえいでいます。その中で、さらに借金を重ねて、1回しか使わない打ち上げ花火のような競技施設やパビリオンに投資することが果たして合理的なのか。将来世代への負担を増加させ、苦しい財政状況を悪化させるだけの結果に終わるのではないか。そうした疑念を払拭できません。下り坂のいたずらな箱モノ投資は坂道を転げ落ちるスピードを加速するだけだ、という意見は説得力を持ちます。

これからも、景気が悪くなると、イベント開催に伴うハコ物投資で、経済を活性化させようという議論が間違いなく出てきます。しかし、単発のハコ物投資により、下り坂の経済を反転させることはできません。すべての財政支出が無駄だというのではありません。困っている人や将来役に立つ施設の建設のための財政支出は当然必要です。そうではなく、何となく将来の経済成長に資するだろうとか、きっと社会を元気させるだろうとかいった漠然とした、不確かな期待に基づく支出は考え物です。

 上り坂でのハコ物投資は経済への起爆剤になりますが、下り坂では財政のお荷物にしかならないことを認識すべきだと思います。

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